今日の思ッタコト
蔵さんがこちらで古いものが良いという価値観に疑問を呈している。私も伝統芸能をやたらと持ち上げる風潮にはうんざりしているし、全く同感だ。学問の世界でも、自然科学の分野なら伝統というものにあまり価値はない。例えば、世界は平坦だとか、亀の上に乗っているなどという単なるおとぎ話には全く価値はないと言っていい。もちろん、色々な仮説の検証から学問はスタートするわけで、突拍子もないアイディアがいけないわけではない。ただ、神学と自然科学が混じったような時代の書物の大半は、自然科学の本としては読む価値のないものだろう。
話を伝統芸能に戻すと、国が保護しないと成立しないような芸能なんて全く価値はない。芸能とは、楽しさや美しさを通じて人々を豊かにするものだろう。国が保護しないと成立しないということは、人々にほとんど楽しさや美しさを提供できていないということだ。
分子生物学、物理、そして…。
高校生の頃は何も知らないくせに、生物学とは進歩のない学問と決めつけていた。しかし、分子生物学に出会って反省。もともと無神論者だったが、分子生物学に触れてからは極端に還元主義的になった気がする。分子の一つ一つがその形や電荷などで機能が決まっていくのを知ると、レゴと生物の違いすらあまりないような気がしてしまう*1。こうして分子生物学という分野は私の頭を作り替えた。もう一つ、相対性理論や量子力学なども自分の頭の大切な構成要素かも。こっちはそんなに詳しいわけではないけれど、光速不変の原理やベルの定理、観測問題は私の世界に対する認識を根本的に変えた。
進化論に対して疑問を抱いたことはなかったけれど、デネットの「進化論は万能酸」という言葉に出会ってからは素直に進化論を受け入れていた人生に感謝している。同じく現実社会を理解するツールとしての経済学は最近の自分の思考パターンに大きな影響を与えている。経済学帝国主義なんて言葉もあるくらいだし。どちらも人間の行動を理解する上で必須であると考えている。
分野は違うが、金融モデルを作り上げたヘッジファンドの連中も学問が人生を決めたんだろうな。批判も多いが、金融市場のアルファを追い求め、数学で市場の歪みを駆逐*2してまわったのがヘッジファンドだ。歪みを解消する過程で一儲けしようとしたわけだが。多分、彼らの頭の中は数学で世界を理解するようになっていたのだろうな。気分だけだけれどなんとなくわかる。
もう一つ、学問自体にアクセスしやすくなったのにも感謝すべきかも。まだまだ頭の改変は続く。
「大気を変える錬金術」を読む
参考文献 大気を変える錬金術 ハーバー、ボッシュと化学の世紀
トーマス・ヘイガー 著
高校の化学でハーバー・ボッシュ法を習ったことがある人もいるだろう。空中窒素からアンモニアを合成する方法であるが、安価で大量生産に向き、廃熱が有効利用できることなどが特徴だ。本書はこのハーバー・ボッシュ法が人類に与えたインパクトを様々な方面から検討している。
まず、人口増加に食料供給が追いついていなかった社会からスタートし、グアノ(肥料になる鶏の糞)や硝石が食料問題を解決した様子を描く。あわせてこれらがチリやペルーに与えた影響、労働問題などが取り上げられる。続いて、空気からパンを作る方法つまりハーバー・ボッシュ法の実用化が描かれる。アンモニアは肥料の原料となるだけでなく、爆薬の原料にもなる。ハーバー・ボッシュ法が実用化され、それとあわせドイツが戦争に突き進んでいった様子やユダヤ人の問題が取り上げられる。最後には、空中窒素の固定と環境問題が論じられる。
コメント
ハーバー・ボッシュ法の威力がわかる良書である。人類が食料危機に陥らず繁栄しているのはひとえにハーバー・ボッシュ法のおかげだ。資源がある国が豊かだとは限らない。資源のないドイツが科学技術で大国になろうとした姿は日本のこれからを考える上で参考にしなければならない。同じように、ユダヤ人を排斥し、戦争に突き進んだ点も反面教師としてよく学ぶ必要があるだろう。
似非科学と自己決定権
「私の性格はこうだから、血液型は○型です」などという人がいる。ご存知のように血液型占いには全く根拠がないが、信じている人は多い。前記のように性格から血液型を決めている人までいるくらいである。
ではこのような人に輸血をする必要が生じ、本人も同意したとしよう。また、本人の考える血液型と医学的な血液型が異なっていたとしよう。この人には医学的に正しい血液型の血液を輸血するべきなのか。本人の希望に従い間違った型の輸血をするべきなのか。
私なりの結論
1.迷信とはかくも罪深いものである。
2.現在の法システムとの整合性はない考え方だが、リバタリアニズムの立場からすれば一定の説明後は本人の責任で間違った型の輸血をしてもよい。
3.現在の法と医療のシステムでは、間違った型の輸血の希望は無視され医学的に正しい型の血液が輸血されるか、輸血そのものが拒否されるだろう。不思議なことに、この場合でも輸血できずに起きたトラブルでは医療者サイドが責められがちである。