道徳と顕示選好

お金より命が大事だという人がいる。条件によってはそうだと思うと答えると、変な顔をされたので質問してみた。
「お金があれば助かる人がいるのに、あなたのお金をすべてそのために使わないのはなぜですか」
その人がとっている行動は、自分のお金は見知らぬ人の命より大切だということだろう。
それとも見知らぬ人の命と、知っている人の命では価値が違うということか。それは条件次第ということではないのか。



とある高齢者が「最近の若い者は国を大切にしないので困る」と言っていた。
「日本は財政赤字で困っています。年金を辞退したら大好きな国が助かりますよ」というと変な顔をされた。
その人の言う国とは自分の既得権のことらしい。

口で言うことよりも行動の方が信頼できるとする顕示選好の考え方は道徳の場合も有効なようだ。

リバタリアニズムと平等、公平感

前回のエントリをもう少し掘り下げてみることにした。
リバタリアニズムに平等がないというのは全くの誤解だ。まず次の内容はすべてのリバタリアンが同意すると思う。それは、私的所有権は皮膚の色や国籍に関係なく誰もが平等に持っている、ということだ。ここを出発点に差別や公平感について考えてみる。

以下は私の個人的な思いなのだけれど、私的所有権が平等である以上、リバタリアニズムの社会では例えば皮膚の色を理由に差別する人は少ないだろうということだ。まず、私的所有権を重視する以上、皮膚の色の違いだけで相手を暴行すること等を認める人はいないはずだ。従って差別と言っても経済行動に限られるように思う。もちろん、リバタリアニズムの社会とは契約自由の社会であるから、皮膚の色を理由に雇用を拒否する会社もあり得るだろう。しかしその会社は次の二つの攻撃にさらされることになる。一つはよくある「優秀な人を、皮膚の色が気にくわないというだけで雇わなければ、その会社は次第に競争力を失うだろう」というもの。もう一つは不買運動、その会社の職員を差別する運動などだ。また、リバタリアニズムの社会なら差別された側も逃げ道は多いはずだ。この部分は以前に書いた都市とリバタリアニズムの関係を参考にしてほしい。都市の無名性を尊重する人間は相手の皮膚の色を気にしたりはしないだろう。

さて、私は差別はある条件を持って肯定されると考えている。前回、リバタリアンが認める差別は相手の行動を見てではないか、ということを書いた。つまり軽蔑されるような行動をとる人間は、つまはじきにされるということである。また契約を尊重しないような人間も排除されやすくなるだろう。

差別とリバタリアニズム

蔵さんの「海賊の経済学」に関する二つのエントリー(こちらこちら)のうち、後者に関して。

リバタリアニズムで誤解されがちなことの一つに「差別の肯定」がある。リバタリアニズムは、個人は何を考えようが自由だから当然差別も肯定する。しかしこれはリバタリアニズムの一面しか見ていない。当たり前のことであるが、大部分の人の公平感に反する発言をする人は、周囲の人から公然と差別されてしまうだろう。報復による差別の抑制である。

リバタリアニズムとは公平感は縁が薄いのは事実である。しかし、自由を重要視する人は肌の色による差別などしないだろうと思っている*1。それはアメリカでの黒人奴隷解放の歴史を見てもわかる。原理的に差別を許容するのと、そのような行動を積極的に推奨するのは全く違う。リバタリアンの考えというより個人的な思いだが、リバタリアンが人を差別するのは、その人の行動を見てだと思っている。

参考動画
http://www.youtube.com/watch?v=hwpNQ1NWzOU

*1:私的所有権の絶対性との連想からか

検診に関するちょっとした考察

蔵さんに「リスク・リテラシーが身に付く統計的思考法」を紹介したのだが、意外に興味を持って読んでもらえたようだ。

私自身、以前から、検診のどの部分が実際に役に立っているのか知りたい、と思っていた。全部ひっくるめて役に立つ・立たないではなく、何がどのくらい役に立つのかはっきりさせたいと思っていたのだ。蔵さんに紹介した「リスク・リテラシーが身に付く統計的思考法」には乳がん検診が例として取り上げられており、50歳以下では予後の改善につながらないとはっきり書いてある。

少し話はそれるが、本書には載っていない例を出そう。慶応大学の近藤医師が取り上げた肺がん検診である。氏の主張には賛成できない部分もあるが、現在の日本の肺がん検診が役に立たないというのは本当である。がん検診が役に立つというのは、治癒可能な段階*1で発見するということだろう。現在行われている胸部単純レントゲン写真で手術可能な肺がんがたまたま見つかるのは非常にラッキーなケースである。コストや保険適応、被爆のデメリット等を無視して単純に治癒可能な肺がんを発見することに絞ったとしよう。必要なのは喀痰細胞診とCT検査である。
もう一つ、検診ではないが呼吸器領域で非常に有用な検査をあげておこう。慢性閉塞性肺疾患*2の予後を推測するのには体重測定が良い。手軽で侵襲性がなく、費用も極めて安い。るいそうが進み始めると死亡リスクが高くなっている。

閑話休題
蔵さんに「リスク・リテラシーが身に付く統計的思考法」を紹介したとき、ベイズまで行かなくても比較的簡単に同じような推定を行う方法*3があり、これを用いて検診等の有効性に一般の人が眼を向けるのは有益なのではないか、ということを考えていた。蔵さんの結論は一般の人はあまり興味がないだろうということのようだ。確かにそうかもしれない。ただ、一般の人のイメージがあまりにひずんでいるのは、検診を推進する側の意図的な戦略とも言える*4。本来、検診を設計する段階でこのような評価はすませてあるべきだとは思うのだが。

本書のような統計リテラシーが普及すれば、血圧コントロールコレステロールの低下がどれくらい有効か、本書の方法で調べる医師以外の人が出てくるかもしれない*5。もう一つ、本書からの大切なメッセージは相対リスクと絶対リスクの違いである。ある治療法で死亡者が20%減ったとする。この記載では、相対リスクなのか絶対リスクなのかわからない。例をあげよう。10万人のうち、死亡者が10人だったところ、ある治療法で死亡者が8人に減った場合、相対リスクは20%減ったことになる*6。絶対リスクだと、0.2%となる*7。表現の仕方でこの治療法の印象も大きく変わるのではないだろうか。このような視点から医療を見直すことは大切なはずだが…。

*1:肺がんの場合、大部分は手術可能と読み替えていいだろう

*2:COPD, タバコ病とも言われる

*3:自然頻度から計算する

*4:「母娘でマンモ」なんて、若い人に乳がん検診を勧める理由がよくわからない

*5:現時点では望み薄だ

*6:10人から8人になったことを表現する

*7:10万人の中で減った死亡者が2人であることを表現する

未熟な人間

未熟な人間が判断したことの責任を問うことはできるのかという問いがある。方向を変えて成熟した人間の判断とはどんなものだろうと思う。例えば知識をとって考えてみよう。ハイエクの言うように知識は局在している。つまり何か判断を下すにあたって完全な知識は望むべくもない。従って判断は不正確になりがちである。これは頭のいいと思われがちな役人が国のために判断を下す場合も同じである。これからすると、自立した個人とは判断能力というよりは判断に伴い責任を引き受ける覚悟のようにも思える。

地産地消の不思議

海のない地区は海産物は食べられないのか?特定の地区の農産物を食べ続けることこそ重金属等の汚染に弱いはずだが*1

*1:色々な地区のものを食べることでリスクが分散できる

市場こそ電力不足を解消する

市場で電力不足解消というと短絡的に料金引き上げと言われることが多いが、もっと広い意味でとってほしい。東電以外の企業が自由に電力を供給・配電できるようになれば料金も下がるし、停電にも強くなるはずだ。今論争になっている「原子力は必須か」と「原子力の発電コストは安いか」も自然にけりがつくだろう。
もっと目先の話でも、大規模工場等が周りに電力を小売りできるようにするだけでかなり電力不足は解決できるように思うけれど。その場合反論として予想される電力の質だが、電圧の変動等が気になる人は高品質かつ価格の高い電力を買えばよいだけだ。