リバタリアニズムと平等、公平感

前回のエントリをもう少し掘り下げてみることにした。
リバタリアニズムに平等がないというのは全くの誤解だ。まず次の内容はすべてのリバタリアンが同意すると思う。それは、私的所有権は皮膚の色や国籍に関係なく誰もが平等に持っている、ということだ。ここを出発点に差別や公平感について考えてみる。

以下は私の個人的な思いなのだけれど、私的所有権が平等である以上、リバタリアニズムの社会では例えば皮膚の色を理由に差別する人は少ないだろうということだ。まず、私的所有権を重視する以上、皮膚の色の違いだけで相手を暴行すること等を認める人はいないはずだ。従って差別と言っても経済行動に限られるように思う。もちろん、リバタリアニズムの社会とは契約自由の社会であるから、皮膚の色を理由に雇用を拒否する会社もあり得るだろう。しかしその会社は次の二つの攻撃にさらされることになる。一つはよくある「優秀な人を、皮膚の色が気にくわないというだけで雇わなければ、その会社は次第に競争力を失うだろう」というもの。もう一つは不買運動、その会社の職員を差別する運動などだ。また、リバタリアニズムの社会なら差別された側も逃げ道は多いはずだ。この部分は以前に書いた都市とリバタリアニズムの関係を参考にしてほしい。都市の無名性を尊重する人間は相手の皮膚の色を気にしたりはしないだろう。

さて、私は差別はある条件を持って肯定されると考えている。前回、リバタリアンが認める差別は相手の行動を見てではないか、ということを書いた。つまり軽蔑されるような行動をとる人間は、つまはじきにされるということである。また契約を尊重しないような人間も排除されやすくなるだろう。