村の連帯から都市の匿名性へ

タイトルはあまりにもステレオタイプであることを自覚しつつ都市論を続けてみる。

小規模の集落では連帯意識が強かったというのは群れを作って生き抜いてきた人間の行動として自然だろう。では、匿名性の高い、資本主義社会・都市生活というのはどうなんだろうか。再分配などを見れば地方の方が優遇されているのは明らかだが、それでも大部分の人は都市に流れる。政府の再分配を超える利便性などの魅力が都市にはあるということだろうか。
以前のエントリで、遺伝子の延長された表現型である都市が更に表現型のぶつかり合いを生み、ポジティブフィードバックを形成していることを論じてみた。想像力をたくましくすれば、これはミーム同士が自分たちの拡散に都合のよい状況を作り上げていると捉えることもできる。
厳密な表現ではないけれど、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいというのがリバタリアニズムだ。この考え方は都市ならではのものだと感じている。市場の無差別性、匿名性の高い資本主義などは大半のリバタリアンの好むところだと思う。これは徐々に自由のミームが広がっていることの現れかもしれない。
リバタリアニズムがどれくらい支持されるかわからないが、都市に住む人の大部分は多少なりとも共感してくれる部分はあるのではないかと思っている。