言語の力・文字の力・ミームの力

人間と動物を分ける大きな境の一つが(複雑な)言語の存在だろう。文明の発達の原動力の一つが言語であることは間違いない。タイトルで言語の力と文字の力を分けたのには理由がある。文字がなくても都市を形成した例は存在するからだ。参考文献*1によれば、コロンブス到着以前の新大陸では、マヤのみが記述様式を持っていた*2

文字の有無は、当時のヨーロッパと新大陸の大きな違いと言っていいだろう。言い換えると、科学技術の発達に文字は必須なはずだ。人間の記憶力には限界があり、職業が高度に分化し、技術が発達するには文字が必要だからだ。ここでミームを持ち出して考えてみよう。ミームとは文化を形成する様々な情報であり、人々の間で心から心へと伝達や複製をされる情報の基本単位を表す概念*3である。文字自体もミームの産物であるが、ミームが伝搬するには文字はきわめて効率がよい。文字を持つヨーロッパはミームの多様さ、伝播の強さで勝っていたのである。

また、外的な要因としては、疫病があげられる。ヨーロッパでは長く家畜を飼育していたため動物由来の病原菌に対して免疫があった。それに対して新大陸には家畜になる動物がおらず、侵略者のもたらした疫病に対して免疫がなかった。侵略に伴い、疫病が原因で新大陸のインディアンの人口は急減したという*4

内的な「ミーム」の力と外的な力のどちらが文化の伝播において決定的だったのかは、今のところわからない。
外的な要因は非常に説得力があるが、今まではあまり目を向けてこられなかった内的な要因の影響を明らかにできたらと思う。

話をリバタリアニズムのことに向けてみる。
ミームの伝播力の話になると、いつも共産主義の伝播力の強さに比べ、自由主義の押しの弱さの理由を考えてしまう。
自由主義とは他人に強制しないことだから、原理的に伝播力が弱いのだと考えたこともあった。だが、たぶんミーム自体の伝播力が弱いのだと思う。つまり人間は極端に原理的な自由は求めていない可能性があるのかもしれない*5。自由はかなりの部分、理性というか思索の産物なのかもしれない。もっとも、抑圧に対しては必ず反発も生まれるから、自由の完全放棄ということもないだろう。それでもリバタリアニズムは普遍的だと考えている。繰り返しになるが、できるだけ制限の少ない社会をベースにして自分の納得できるコミュニティに属していくことがほとんどの人間に取って最も良いのではないかと考えるからだ。

*1:トマス・ソーウェル 「征服と文化の世界史」 第5章 新大陸のインディアン p366より

*2:インカ帝国が文字を持っていなかったことは注目に値する

*3: wikipediaより

*4:ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」、トマス・ソーウェル 「征服と文化の世界史」 、ウィリアム・バーンスタイン「華麗なる交易」などより

*5:この辺りについては蔵さんが遺伝的な面から考えている