村の連帯から都市の匿名性へ2

前回も書いたように大多数の人々が都市に流れることから、連帯意識より匿名性の高い生活が好まれることは明白だ。連帯意識が薄れたということが話題になる度に違和感を感じてしまう。連帯意識はある水準から外れることを許さない。怠けるにしても飛び抜けるにしてもだ。どちらに外れようとも個人の自由だということを認めない。連帯意識の強い生活を素晴らしいという人はよほど嫉妬心が強いのだろう。

商売を例にとって更に考えてみる。
閉鎖的なコミュニティでは身内ならぼったくられるということはないだろう。だが、それは余所者には住みにくい差別的な環境という意味でもある。逆に都市では競争的な環境にある店が、相手がどんな人であるかにこだわらずにサービスを提供するだろう。また、店の側も縁故による区別をしないでいい分、気楽だろう。確かに、都市では買い物をするにしても一期一会になりやすく、ぼったくりは成立するかもしれない。経済学で言う「情報の非対称性」というやつだ。だが、クチコミやネットでの情報流通という防衛策も遅れ遅れではあるが育ってきている。縁故ではなく、努力と工夫で商売が認められる方が公正だという人の方が多いはずだ。
また、人ごみが好き理論を買い物に適応すると、田舎では都市ならでの選択の広さというものも望めないのがよくわかる。ニッチマーケットというのは人口が多い分都市の方が遥かに成立しやすいからだ。

もう一歩進んでみたい。ドライな人間関係の良さに付いてである。
都市でも村でも人間が顔を合わせて暮らしていれば、いじめ・つまはじきというものはあるだろうが、都市の方が村八分というものは成立しにくいことは明らかだ。自分のことを知らない人間ばかりのところに移動する、あるいはそこでサービスを購入すれば良いからである。そう考えると市場の無差別性、都市の匿名性は一般に思われているのとは逆に人間関係が希薄なことで人を助けていることになる。