犯罪を取り締まるコスト

蔵さんのエントリーより。

残念なことに、常に擬態をする人間(と動物)はいる。人々が望ましいと考えるような活動は、普通は本人に様々なコストを支払わせるが、無名性の強い資本主義社会では、善意を装うことによって他人からの信頼を受けて、それを換金することが可能だからだ。
残念ながら、こういった人々への有効な対策は存在しない。「政府」がどの団体が真の慈善活動なのかを判断することは、コストと信頼性の点で逆効果になるからだ。おそらくこういった場合においてこそ、クチコミなどを通じての、長い間の活動の評判に意味があるのだろうと思う。まさにローマは一日にして成らずというものだ。

コストを考えて犯罪を取り締まるというのは心理的に受け入れがたい面があるが、リバタリアニズムを持ち出すまでもなく、現在の社会制度でも重要である。環境問題でも同じことだ。だが、なぜ受け入れがたいのだろう。「昔はよかったバイアス」と同じことが原因と考える。
人間が大規模な社会を作るようになったのは、進化的な視点から見ればごく最近のことである。おそらく、数十人の「群れ」くらいの集団での人間関係をうまく処理するように人間は進化してきたのだろう。そこでは全員が顔見知りであり、評判が自然にわかるのが前提であり、ずるができなかったのであろう。従ってコストのことを考えるよりもずるを許せないという反応をついついしてしまうのだろう。しかし、現代社会は蔵さんが書くように「無名性の強い資本主義社会」である。名前も知らないような人*1とうまくやり取りしなければ生きていけないのだ。そのような社会の利点を享受しているにも関わらず、人間関係が希薄だ、昔の方がよかったなどと批判する人がいる。先ほど書いた「昔はよかったバイアス」の登場である。しかし、知り合いにしかものを売らない店は使い勝手が良いだろうか。また、数十人の閉鎖的なコミュニティがどれだけの生産性をあげられるだろうか。数十人で農業から医療、交通などすべてまかなって現代の生活水準を維持するのは不可能である。
だが、人間はバイアスを認識して行動を修正することができる。たぶん、バイアスを修正し、人間関係の希薄な社会での擬似的な「顔見知り信頼性」を構築する方法が必要なのだろう。その一つがブランド構築と考えてよいだろう。コンビニなら全国どこでも同じ品質が保証されていることに代表されるように。蔵さんが取り上げた慈善団体・偽慈善団体問題も、その評判が市場での評価のようにクチコミで評価されていかなければならないのだろう。価格がつかない以外は市場と同じだろうか。

*1:コンビニの店員などを想像していただければよい