アイン・ランドの思想と(狭義の)リバタリアニズムの比較

アイン・ランドの「利己主義という気概」が邦訳で出版された。「水源」や「肩をすくめるアトラス」もあわせてランドの思想である客観主義を狭義のリバタリアニズム*1と比較してみた。
簡単にこれらの三冊の本を紹介しておきたい。
水源は、若手無名の建築家のサクセスストーリーである。主人公はランドの思想を具現した人物になっている。高層建築は人間の偉大さの象徴として描かれ、ランドの人間讃歌がよく現れている。
肩をすくめるアトラスは、ランドが自分の思想を水源のときよりももっと深く書き込んだ政治思想小説である。自分の能力を発揮して社会を支えるような人間がいなくなり、全体主義がはびこるとどうなるかを描いている。ランドの極端な能力主義に付いては山形氏からの批判もある。以下で狭義のリバタリアニズムとの違いを別な角度から考察してみたい。
利己主義という気概は、客観主義に付いて解説したエッセイ集である。訳者の解説はよくまとまっていて参考になる。


では、本題の客観主義と狭義のリバタリアニズムの違いについてまとめてみる。
まず、客観主義では生きることを肯定的に捉える。ランドはそこから個人の生きる権利は侵しがたいものであると議論を進める。この権利を所有権と読み替えれば、客観主義とはノージックやロスバードと同じ所有権基底的なリバタリアニズムであると考えることもできる。また、政府についての捉え方から分類すれば、警察・司法・国防のみを政府の役割とする最小国家論者(ノージック)に分類できる。
しかし、客観主義の特徴は前述した生きることを肯定的に捉える点にある。狭義のリバタリアニズムと違い、生き方までもランドは提示しているのだ。リバタリアニズムの特徴は素っ気ないまでの「自由放任」である。がむしゃらに働こうがぐうたらしようがそれは本人の自由なのだ。客観主義では能力を発揮することの美徳が強調される。ここは大きな違いだと言える。
ランド自身は、ソヴィエトからの亡命者であったためか、全体主義のみならず無政府主義も否定する。ランドは、DDフリードマンや蔵さんが唱えるアナルコキャピタリズム、政府の役割を民間警備会社や民間司法組織が果たすということについては肯定的には捉えていない。この点ではノージックと結果的に同じ結論に到達している。*2
次に訳者の強調する点であるが、ランドは個人の権利を強調するため、社会全体の幸福というものに関心がないあるいは否定的である。リバタリアニズムが自由市場を支持することは、「結果的に有効に展開するという功利主義的理由から」だと訳者は批判する。しかしここで訳者は権利基底的なミーゼスあるいはロスバードを持ち出して批判しているが、この批判がある程度有効なのは帰結主義的なリバタリアンであるシカゴ学派なのではなかろうか。ただ、帰結主義的なリバタリアンが自由市場を支持するのも、個人の権利が出発点であり結果として社会全体の幸福も増すととらえているのか、社会全体の幸福を増大させる目的で自由市場を支持しているのか私自身にははっきりしない。今後の課題である。

*1:ここではロスバードやDDフリードマンハイエクなどを想定していただきたい

*2:ノージックは見えざる手の働きで多数の民間警備会社や司法組織が最終的に一つになるとしている