受け皿

最近、リバタリアンの世界を考える上で気になる問題に出くわした。もちろん、現在の社会でも大きな問題になっている*1。それは、刑務所が障害者や立場の弱い外国人、一部の高齢者の受け皿になっているという事実だ。書籍としては、
犯罪不安社会 浜井浩一芹沢一也
累犯障害者 山本 譲司著
が参考になるだろう。もちろん、犯罪は*2悪い。ただ、社会で居場所がないからわざと軽犯罪をして刑務所で暮らすという現状は不幸なことだと思うし、その社会には歪みがあるに違いない。とは言うものの、いくら障害があるからといっても、実際に殺人まで犯してしまった人については社会の歪みだけが問題とも言えないから事態は複雑である。ただ、このような人たちが犯罪を犯す前に何か受け皿があったら社会は変わっていたかもしれないと強く思う。このような問題を解決していくには、福祉国家のような制度しか解決方法がないのだろうか。リバタリアンなら、社会の安定のために自発的にこの人たちの受け皿を作るためのお金を出すだろうか。すなふきんさんのブログでのBUNTENさんのこのコメントも参照

リバタリアンの社会に関して悲観的なことを書いた。ただ、今の社会ではつまはじきにされている人たちにはリバタリアンの社会の方が幸せかもしれないという希望的観測もなくはない。リバタリアンにとっては、様々な人がいるというのは当然の前提であり、すべての人が自由に生きる権利を持っているからだ。従って、そのような人たちをつまはじきにする社会には反対するだろう。金銭に余裕のあるリバタリアンの中には、おせっかいにならないか心配しつつも、困っている人に手を差し出す人がきっといるに違いない。税金のように強制されなくても、合理的思考をするリバタリアンたちは自分たちの自由な社会を維持するコストとして自発的にお金を差し出す可能性があるからだ。他人に干渉されるのを嫌うリバタリアンとて、周りがハッピーならそれにこしたことはないからである。

*1:現状をどうすればよいかということは残念ながら考察の対象外である。ただ、このままでよいとは思わない

*2:冤罪でない限り