進化論と教育、そして自由

無神論を扱うと進化論の話になるので少し書いてみよう。

ドーキンスデネット更にニコラス・ハンフリー、スティーブン・ピンカーといった、進化論に立脚して各分野の仕事をしている人たちが問題視するのは、教育における進化論の扱いだ。これは児童虐待と似た構造がある。リバタリアニズムでは各人がどのような思想を持とうが自由であるが、教育はどうだろう。各自の自由とは言い切れない面がある。ポイントは教育の効果は子供に現れる点である。リバタリアンは「教育は大切だから国に任せておけない」とする。私もこの意見に賛成であるが、例えばインテリジェント・デザイン論を支持する家庭に生まれた子供は私の目から見れば不幸だと思う。だが、そこへの介入は正当化できるのか?

では、市場に任せるとどうなるだろうか?インテリジェント・デザイン論を正当と教える学校は市場で生き残るだろうか。小規模のコミュニティになるだろうか?これはアメリカだけの問題ではない。進化論からはずれるが、日本でも同じような問題が小規模だが存在する。閉鎖的なコミュニティで育った子供がどうなるかという事例が私が知る限りでもいくつかある*1
私の予想は、教育を市場に任せていったとき、インテリジェント・デザイン論を教える学校はそれを支える小規模なコミュニティの一部となって残るというものだ。そこでは他の思想を排除する仕組みを持ったミームが防御壁を固めているが、オープンな文化に触れた若者が時々離脱していくだろう。

消極的な解決方法だが、そのようなコミュニティの外で情報を用意して待つしかないのだと思う。