モジュールは同じでも

人間の意識や思考、どのように外界を認識しているかに付いては色々わかって来ているようだ。
ピンカーやデネットの一連の著作やパスカル ボイヤーの「神はなぜいるのか」では、人間の思考を支えるモジュールとして「直感物理学」や「志向性」に触れている。例えば直感物理学とは、投げた物は落ちるというような認識のことを言う。日常生活を送るのに適したモジュールが進化で形成されて来たのだろう。だが、人間の思考の面白いところは、直感物理学などのモジュールを超えて思考を展開できることだ*1

直感物理学のモジュールなどはほとんどの人で同じはずだが、みなが物事を同じように考えるかというとそうではない。前回のカテゴリでホメオパシーについて触れたが、ここでは占いをとりあげよう。占いを肯定する人も、何やら原理と称する物からそれなりの理屈を演繹しているのである。これは演繹的な思考であろう*2。また、当たったと称してベイズ的に占いは当たるという確信を強めていく。
しかし自然科学の素養のある人間なら、よく考えないでも占いを退けるだろう。またベイズ的な発想で占いが当たるかを調べたとしてもきちんと統計学のフィールドに持ち込むだろう。同じ思考のためのモジュールを持ちながらなぜこんなに違うのだろうか。

脳のモジュールはコンピューターのハード部分に例えるのがいいのか。昔のMacのToolBoxみたいな。その上にどんなOSをのせるかでコンピューターの振る舞いも変わってくるのだろう。子供の頃に、どんな思考パターンを基礎知識あるいはその運用方法として習得するかで人生は大きく変わってしまう。

元々直感物理学は日常生活を便利に送るために進化的に出来上がったとすれば、物理学的思考というのが受け入れられにくいケースがあることも納得できる。しかし、このOSのすごいところは慣れてくるとあまり苦労しないでも自然に働くようになってくるところである。自然科学の思考に慣れた人なら、厳密に考えなくても占いなど否定してしまうだろう。

とりとめもないがこの辺で。

*1:それでもモジュールは使っているのだけれど

*2:完全な演繹ではない