フリーライダーをどこまで許容できるか

その社会が政府を大きくし、規制を増やしていくかどうかは、フリーライダーをどこまで許容できるかというメンタリティにかかっている、と思う。


フリーライダーというのは、文字通りただ乗りする人間のことで、コストを負担せずに利益を得る人を言う。都市のオープン・ドライな関係が良いと以前に書いたが、日本ではあまり歓迎される考え方ではないようだ。オープン・ドライな関係には、一期一会のチャンスを生かして利益をさらっていくフリーライダーが存在しうる。これを完全に防止する方法はないだろう。日本人はこのフリーライダーの存在が我慢できないように思える。

slumlordさんのつぶやきより引用

10:22 PM Nov 27th

以前fuyusyaさんが「都市の匿名性は人を自由にする」、「リバタリアニズムと都市は相性がいい」という趣旨のことを書かれていて、ぼくも全くその通りだと思ったわけです。


10:34 PM Nov 27th

ただ、最近思うのは、都市の匿名性は人を自由にする一方で、個々人の「機会主義的な行動」を誘発する可能性もあるということ。村社会ではそういった人間は「「村八分」といった形で制裁を加えることができるが、都市ではそれが難しい。例によってこれが問題になってくるのが「公共財」供給のケース。


11:14 PM Nov 27th

つまり、かれ*1の言葉を借りるなら、「公共財」の私的供給のためには、「協力の有効性(cooperative efficacy)」が高いことが必要だが、これは同時に「カルテル」、「差別」、「村八分」、「厳格な社会規範」そして「プライバシーの侵害」といった負の側面をもたらすということだ。


これらのつぶやきをもとに日本人とフリーライダーの関係に付いて考えてみた。

Wikipediaフリーライダーに付いてまとまった内容があるが、要するに日本にはフリーライダーを許容できないメンタリティがあるのだと思う。よく考えれば、わずかなフリーライダーをも許さない社会は制限がきつくて逆に活力を失うだろう。それでも日本人はフリーライダーの存在が我慢できないのだろう。そもそもフリーライダーの大きな原因の一つは政府の規制による既得権なのだから、皮肉な話なのだが。

市場を生かしていくと、フリーライダーが発生するのはさけられない。しかし、個別のフリーライダーに対しては自然に対策が生まれるであろう。警察というものは公共財だと考えられているが、日本でも民間の警備会社というものは存在して重要な産業になっている。公共財が完全に民間で供給されるかという議論とは別に、少なくとも部分的には民間で供給されるし、その分政府を制限していくことは可能だと結論することは自然だと思う。

slumlordさんの結論と上記を合わせて考えれば、公共財をできるだけ私的に供給しつつ、都市型の生活を拡大するとすれば、フリーライダーの存在を受け入れなければならないのだろう。そのラインをどう引くか。また、フリーライダー対策の規制が別のフリーライダーを生み出しうると理性的に納得できるか。ここで社会のあり方が決まるように思う。

いつも有益な考察を与えてくれるslumlordさんに感謝。なお、このメンタリティは遺伝で差が生まれるのではないかというのが蔵さんの仮説だが、これについては別の機会に取り上げたい。

*1:引用者注   タイラー・コーエンのこと