リバタリアニズムと差別、機会の平等

リバタリアニズムにおいては、差別を肯定するが、結果的に差別を減らすにはリバタリアニズムが最良である。また、リバタリアニズムにおいては、機会の平等も否定されるが、実質的にそれに近い状態を作り出すにもリバタリアニズムが最良である。
リバタリアニズムは差別を肯定する。いかなる思想を持とうとその人の自由だからだ。国籍や肌の色で人を差別するのと、例えばCDを特定の店では買わないようにするのとどこが違うのか。私にとっても、この二者が心理的に大きく違い、前者に否定的な感情を抱き、後者は普通のことのように思えるが、どこが違うのかうまく説明できない。
ただし、差別とリバタリアニズムの関係については注釈が必要であろう。

まず、すべての人の自由を尊重するというリバタリアニズムの理念は差別とはなじみにくいのは事実である。歴史的にも、人種、性別による差別に積極的に反対してきたのはリバタリアンであった。また、リバタリアニズムの世界では、評判というものが重要な役割を果たすことになると考えられている。従って差別というものが自分の評判とかかわると考えた場合、たいていの人は表立っては差別という行動をとらないようにも思う。経済的な面から見ても、例えば特定の肌の色の人をその理由だけで採用しない企業は不利になると考えられ、市場がうまく差別を減らしていくと考えられる。
以上から、リバタリアニズムにおいては、差別を肯定するが、結果的に差別を減らすにはリバタリアニズムが最良であると考えられる。

次に機会の平等であるが、リバタリアニズムにおいてはこの平等は全く認めない。以前議論したように出生地、生まれる時代、持って生まれた才能などは決して平等にすることはできない。生まれつき頭脳明晰な者に、思考できないよう常時ヘッドホンで大音量の雑音を聞かせるようなことを肯定するものはいないだろう。

では、職に就く自由はどうだろう。リバタリアニズムの世界では、自分で何か企業を興すのは全く自由である。これは問題ない。では、雇用されることはどうだろう。これは雇用する側との契約の問題である。自分が雇ってもらいたいからと言ってそれが何でも通る世界など考えられないだろう。従って職に就くことでの問題はないと考える。また解雇規制がない世界では、試しに雇うということが気楽にできるから、学歴のため就職しづらいということも幾分か緩和されるはずだ。もっとも、学歴はある程度その人の問題処理能力を示すのも事実だから、全く差別がないということにはならないだろう。学歴による差別を完全になくしたい人には、医学のトレーニングを全く受けていない人に手術してもらうように勧める。医学教育を受けていないというだけで差別するのは良くないことになるはずだからだ。

おそらく、ほとんどの人が問題視するのは、教育を受けるチャンスについてではないだろうか。まず、教育は市場的と論じてみたい。教育は人々を豊かにするには市場と同じく非常に良い方法だということ。しかし、その働きの結果、格差が生じるということ。この二点が市場に似ているように思う。人的資本の大切さは、ベッカーも盛んに強調している。これにはほとんどのリバタリアンも同意するだろう。従って教育を受ける機会がなく、貧困から這い上がれないと想像するのは、リバタリアンも含め誰に対しても強いインパクトがあるのではないだろうか。
この話はロールズの「無知のベール」の思考実験と同じ構造を持っている。ほとんどのリバタリアンロールズの論考に対して否定的であろうが、「無知のベール」思考実験が強烈な影響を与えたのも事実である。リバタリアンはどのようにして「無知のベール」思考実験を退けるのか。また、教育の機会平等をどのように捉えているのか。ここでは、あえてノージックのように自然権の理論に訴えることをせずに話を進めてみたい。

人々を豊かにする非常に良い方法という意味では、すべての人に教育の機会を、という理念には幾分賛同したくもなる。しかし、就職のときの話と同様、すべての人が全く同じ教育を受けることなど不可能である。それはまた適切でもない。理解が遅い子供には基礎的なことをゆっくりと繰り返し教える方が良いだろうし、数学が得意な子供には突っ込んだ内容に触れることもまた良いと思われるからだ。この問題は、公教育より私的な教育機関が様々なサービスを効率的に提供することで解決できる。現在、受験対策のサービスを提供している私的な教育機関を見れば、一目瞭然だろう。つまりリバタリアニズムの世界が適切だということだ。

残る問題は貧困のため、教育を受けられないというものだろう。ここでもリバタリアニズムの世界ならかなり良い解決方法を提示できる。まず、私的教育機関が市場でサービスを競うことで教育にかかる費用は低下すると予想される。リバタリアニズムの世界は税も低いか全くなく、しかも規制がきわめて少ないため現在よりも相対的に豊かな世界になっていると考えられる。また、優秀な人材を確保したい企業は奨学金を出すであろうし、優秀な卒業生を排出したい教育機関は特待生には授業料を減らすことも考えるだろう。最後に、リバタリアニズムの世界は評判を大切にするから、寄付も盛んになるはずである。こう考えると、リバタリアニズムの世界では、やる気がある人間なら今よりも這い上がりやすいと思われるのである。
こう考えると「教育の効果は市場的」であり「教育は市場を活用して行うべし」となるだろう。それはまさにリバタリアニズムの世界での教育のあり方であり、教育の機会平等にかなり近いはずだ。