自由と寛容

リバタリアンの世界はぎすぎすしてそうだ、という意見がある。必ずしもそうではない、ということを書いてみたい。
リバタリアニズムの中に無政府資本主義という立場があるように、規制のない自由な市場とリバタリアニズム全般は相性が良い。自由な競争的市場が前提とするのは、「世の中には多様な考えを持った個人がいる。こちらからみると不合理なことをしている人でも、その人の中ではその人なりの合理的な理由があるのだ」という考えである。そもそも多様な考えの人間が参加しないと市場は成り立たない。例えば株式市場においてある値がついたということは、その株価なら自分が支払うお金の方が企業価値より割安だ(これから株価があがりそう)という人と、逆に割高だと考えた人がいたわけだ。
このように世の中にはいろいろな考えの人間がいるということを前提にすると、自分が被害を受けない限り他人に干渉しないというリバタリアンの考えも納得できるのではないだろうか。それは他人に寛容な暮らしやすい世界だと思う*1。規制が多く、他人が一方的に振りかざす倫理・道徳に縛られた世界の方がよっぽどぎすぎすしている。

*1:リバタリアンの世界でも相手が納得する限り他人と交流するのは自由である。経済学の基本的前提の一つ、分業することにより生産性が上がり暮らし向きがよくなることから考えると他人との交流のないリバタリアンの世界など考えられない。