時間の価値

500円のものを買うのに大行列しているとする。価格はさほどでもないけれど、手に入れにくいということが希少性を高めているのだろうか。経済学は希少性を扱う学問である。ではこの希少性は何と交換されているのだろうか。その人の時間だろうか。
時間の価値ということを考え始めると、私の場合、いつも時間選好の問題に行き着いてしまう。
例えば、ちょっとしたカフェなんかでずっと大声でしゃべっている人たち、特に目的もなくぶらぶらとしている人たちを見ていると
a)自分たちはこんなことをしていても生活できるという見せびらかし?→有閑階級の理論・ヴェブレン
b)彼らはその瞬間瞬間で最も良い時間消費を選択しているはずであり、他人からみてだらだらしているようでも、彼らの中でほかにできることと比べればそれが最も良いことなのである。逆に言えばそんなことしかできない。
という考えが浮かんでくる。どちらの考えが説得力があるだろう。正確には、この二つの考えは矛盾するものではなく、見せびらかしが最もやりたいことなのだと捉えることもできる。私なんかは「他にすることあるだろう」と思ってしまう。リバタリアンに取って価値はそれぞれだからかまわないと言えばかまわないのだが。
この二つを比べてあぶり出されるのは、自分の時間の価値観だろう。この「他にすることがあるだろう」という私の発想は、言い換えると「将来のために今そんなことをしていていいのですか」と言い換えることができる。つまり時間の価値を「将来価値をどれだけ割り引くか*1」から捉えてみるのだ。子供は将来の価値を低く見積もりがち*2で、時間選好率が高いと言える。b)の話で言えば、今この瞬間を将来のために使用しないのは時間選好率が高いのであり、a)は将来の心配がない考えているはずで時間選好率が高いと言えるかもしれない*3。このように考えるとa)b)は同じ考えなのかもしれない。
時間選好率が違うということは、お互い、自分が最も良いと思うことをしているが目指す先は全然違うようなものだ。言い換えれば、きっと従うべきルールが違うゲームをしているのだ、たぶん。

*1:時間選好

*2:今勉強しないと将来困るよ、と言われてもピンとこない

*3:aと時間選好率が高いことはイコールではないと思うが重なる部分は大きいように思う。指摘歓迎