思想と遺伝、感受性

親子であるいは三代にわたって思想を受け継ぐ家族がある。例えばフリードマンの家系がそうだ。ミルトン、デイヴィット、パトリと思想を深めながらも自由を擁護する姿勢は変わらない。さて、これは家族の環境という文化あるいは社会的な要因だけで規定されるのだろうか。おそらく遺伝が幾分かは関係していると思う。自由を愛する遺伝というよりは反骨的な気質というものではなかろうか。気質という面からリバタリアンを捉えると、多分、反骨的な気質、リベラルへの一定の理解、ルールを尊重する姿勢と言ったものが入り交じっているのだと思う。

ただ、気質だけでリバタリアンは形成されないはずだ。おそらく思想というミームに対する感受性にはひどく敏感な時期があって、その時期に自分の気質にあうミームに感染することが重要なのだと考えている。もちろん、年を重ねるにつれ思想的な立場が変わる人もいるが、そのような人でも根本的な部分は揺らいでいないように思う。特定の時期、自分の気質にあうミームがその人の思想的立場を決定づけているというのが私なりの結論だ。

転職ネタ

slumlordさんの転職の話(ここここ)を興味深く読ませて頂いた。何か状況に不満がある場合、その状況を変えようとしたりそこから出て行ってしまう人と、そこに自分をあわせようという人の二つに大きく分けられるように思う。気質という面から見た場合、やっぱりドーパミンセロトニンと関係するんだろうか*1

*1:転職を小さな移民と捉えて

予防接種と外部性

インフルエンザもピークを越えつつあるようだ。インフルエンザに関しては、予防接種の有効性は明らかである。またインフルエンザ治療薬の有症状期間の短縮は明らかではあるが、意外なことにインフルエンザ治療薬が重症化を本当に阻止しているかについてははっきりしていない。
さて、予防接種で思い出すのが外部性の話である。ある地域での接種率が上がってくると、その感染症は流行しなくなり、予防接種を受けていない人も恩恵を受ける。まさに正の外部性だ*1。だが、そのために予防接種を強制するのがよいかというと難しい問題だ。むしろ市場が競合する予防接種薬を提供する方がよりよく流行を阻止するようにも思える。ここで少しリバタリアニズムにとってはマイナスの話を書いておこう。麻疹*2の発生が残る数少ない先進国が日本である。アメリカや韓国では持ち込み以外はほとんど麻疹を見ることはないと言われている。日本は予防接種に対する偏見が強く、麻疹の定期予防接種を受けていない人が他の国に比べて多いためだ。この問題をリバタリアンはどう説明するか。
まず、国家が個人の健康管理に介入するのがおかしいという論法も考えられる。そもそも個人の判断で予防接種を受けずに感染症にかかっても、あくまでそれは個人のことで他人があれこれ言うべきではない、という理屈だ。また予防医学を含めた医療全体を民間が提供したらもっと効率的に感染症を予防できるという話も展開できるかもしれない。
もっとも個人的には日本の予防接種恐怖症が一番の問題のような気がするのだけれど。

面積

小学校の頃、円の面積を求める公式はどうやってできたんだろうと思っていた。円以外でも、ぐにゃっとした形の面積がきちんと測れるということが不思議で仕方なかった。今考えると、その頃既にヒントは与えられていた。小さなタイルを円の中に敷き詰めて「だいたいの」面積を求めるのだ。子供心に所詮「だいたい」でしかないとは思っていたのだが。高校に入って積分という概念を学んで一部納得した。単純に積分で求められるということに納得したのではない。面積を求めることができる図形で近似して極限をとることで面積を求めることができる。この操作はなんだか腑に落ちたような気がした。
しかし考えてみるとこれはあまりに直感的な議論でしかない。極限の存在自体は別の問題としてあるし、厳密にはεδ論法で話を進めなければならない。また、「はさみうちの原理」として使用していたアイディアも本来は証明を必要とする事柄である。それにそもそも高校までで扱っている面積の概念自体、無批判にユークリッド空間を前提としているはずである。下手をすると公理系の話に迷い込んでしまう…。
結局子供の頃の疑問は深さが変わりながら今も残ったままだ。

漢方に対する雑感

東洋医学・漢方に対して私は非常に懐疑的である。少し前に書いた定義に関する話とかぶるが、東洋医学・漢方での「証」という診断の曖昧さが腑に落ちない。診断なんてある程度トレーニングすれば誰でも体得でき、再現性のあるものでなければならない。そのためにはかなり客観性のある診断基準等も必要だが、漢方にそれは期待できないだろう。また、漢方薬の統計的優位性についてはまだまだ手が付けられ始めたばかりである。これからも有効だと言い切れる漢方薬はどれくらい残るだろうか。よくある反論が「有効なケースがあった」ということだが、この場合、おまじない等と同じで自然経過で良くなったあるいはプラセボ効果と区別できていない。もちろん、漢方から生まれたマラリアの特効薬artemisininのようなケースもある。だがそれは漢方の優秀性を証明するものではなく、有効成分を単離する科学技術や有効なものなら何でも飲み込む西洋的な医療の優秀性を示すものだ。
さて、医療保険が政府が提供するものではなく、民営化されていたらどれくらいの漢方薬が生き残っているだろう。

気になるデータ

一つ目。ポール・ヘインの「経済学入門」より
所得格差について述べた部分の脚注に、所得の多い層は少ない層より労働時間が長い旨の記述あり。所得格差に注目が集まってもこのような事実は黙殺されてしまう。所得の少ない層は、労働意欲があってもあまり長く雇ってもらえない*1のかもしれない。また、本人に働く気が少ないという両極端の可能性が考えられる*2。いずれにしてもヘインの指摘は重要だ。
二つ目。マーク・ブキャナンの「人は原子、世界は物理法則で動く」より。
あらゆる社会の所得分布がベキ乗則に乗っているという著者の指摘は重要。つまり平等が建前の共産国家でも所得格差は歴然としており、しかもその格差は厳しいのだ。あらゆる所得の再分配は失敗に終わると言い切っていいのかもしれない。ならば、貧困層を救うのは所得の再分配ではなく経済成長であるということになる。もう一つ論理の飛躍を承知で言えば、それは政府を小さくすることだ。

*1:パート主体など

*2:実際は両方なのだろう

定義はやはり大事かも

ずいぶん前に蔵さんが「もっと厳密に、その曖昧(でペダンティックな)言葉を定義してから書いてくれよ!と感じるのだ」と書いていたことがあって、それなりに納得はしていたのだが、最近改めて思うことがあった。学術的な話ではないがちょっと書いてみたい。

例えば、「強い薬」という表現だ。これは何を意味しているのだろう。期待する効能が強いということだろうか。強いというのは、短時間で疾患を改善するという意味で良いのか。しかし大半の人は副作用が強いという意味で用いているようにも思える。また効用が強い薬は副作用も強いと思い込んでいる人は多いがこれは完全な間違いである。期待する効能と副作用のバランスについても例えばLD50と有効血中濃度を比べている人はほとんどいない。副作用の頻度と程度を効能と天秤にかけるべきだが、そのようなことができる人はあまりいない。
ありがちなのが抗菌薬に対する「強い薬」という表現だ。副作用の頻度が多い、副作用の程度が強い、殺菌能がシャープである、抗菌域が広いなどといういくつかの意味で使われがちである。それぞれ統計的な頻度、副作用のグレード分類、MIC、抗菌域(スペクトラム)などがちゃんと定義されている。専門家ではない人に説明する場合でも、せめてどのような視点で強い薬かはっきりさせるべきだろう。ちなみに、抗菌域が広い、つまり色々な細菌に対して効果を発揮する薬物の殺菌能がシャープであるとは限らない。例えば大部分のグラム陽性球菌をカバーするバンコマイシン*1の切れ味は決して良くない。むやみに「強い薬」を恐れるのも逆に欲しがるのも意味がないと言えよう。

話は飛ぶが、このような定義を明確にして議論をするというのは、衒学的な趣味の人とは極めて相性が悪いように思う。理系と文系という区別より、遺伝的に規定された思考パターンの違いではないかと思う*2

*1:MRSAに効果が期待できる

*2:かなり衒学的な記述ではありますが